岡崎「うーん,たとえばアウラという言葉があるでしょう.作品の唯一性というように誤解されているけれども,むしろ作品の同一性が保証されるシーケンス,コンテクストのことだと考えるべきだと思います.
アウラの語源はギリシャ語でそよ風だったわけだし,事物と事物を結びつける風,つまりコミュニケーションが成立する場のことである.写真ではそのコミュニケーションが成立する場が切断されている.
読み直してみると,『写真小史』でベンヤミンはきわめて明快にこう規定している.アウラが保証されていない時は,意味も質も,一つに同定できない.にもかかわらず写真あるいは何かを理解しようとすると必ず,それを他の何かに結びつけるためのアウラ,つまりシーケンスが要請される.何に関係するかわからない,いまだに関係として定位されえない関係が感じられる.それが転じて,アウラは何かの予兆のように起こる偏頭痛を意味する言葉になった.
偏頭痛っていうのはそれを引き起こす原因から切断されつつ,なおかつそれを感じてしまうから痛いわけですね.クオリアがあると安心していられる人は,この偏頭痛はわからない.「写真にはアウラが無い」と書いたベンヤミンは,いわば偏頭痛のように分析したのだと思います.つまり「写真にはクオリアはない」と言い換えられる(笑).でも偏頭痛は起こる(笑).
ベンヤミンがいちばん偉い点は,写真を発表する,写真を見るという行為を会話行為のように捉えたところにあると思います.会話の意味ははその会話がなされている場,そのアウラ――その場に流れている風――の中でしか確認できない,会話とは,その場に応じて話すわけですが,写真はその場から切断されてしまい,そこに撮られた人,それを撮った人にとっても,いったい,どこでいつ,誰にこの写真を見られるかわからない.
ベンヤミンも,それを顔という概念で説明しています.何が見られ,読み取られてしまうかわからない.言葉に置き換えて言えば,自分が何を喋り何を言ってしまっているか,わからない.
別の視点で言い換えれば,自分がそれをしていると思っている以外の行為,別の会話を同時にしていたというわけですね,ベンヤミンは正確にそれを領域として特定される無意識でなく「無意識的」なものと言っています.」
斉藤環「偏頭痛としてのアウラはという指摘は非常に興味深いです.いちおう医師として(笑)野暮な注釈をしておきますが,アウラというのは正確には偏頭痛の前兆として見えるちかちかした光(閃輝暗点)を指す言葉ですね」
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